モーリーヒストリー3

ツアー中ですが、森モーリーヒストリー第3部になります(^^;;

お時間ある時にでもどうぞ😅

11/20サルーキ=ワンマンライブまであと1ヶ月切りました!そして会場チケット🎫thank you sold out‼️✨

【森モーリーのフリーター〜中華コック時代〜サルーキ=結成編】

1994年春。単位ギリギリで奇跡的に大学を卒業できた僕は就職をせず、親に1年間の約束で音楽をやってみるという選択をした。

妹は短大を卒業して神戸に就職したので一緒に暮らしていたアパートはひき払い、一時的に八王子に住む兄のアパートに3ヶ月居候させてもらい、お金を貯めて新しく一人暮らしのアパートを借りた。大学時代からずっとやっていた中華レストランのアルバイトだけでは生活も厳しく、もうひとつ仕事をかけ持ちした。当時24時間営業していたモスバーガーで深夜の枠で働いた。アルバイトを二つもかけ持ちするとそれだけで精一杯。

しかも深夜働くと昼と夜が逆転して、いつも頭がぼーっとしていたような記憶。音楽をやるどころか、この一年はなんだかよくわからない感じのまま、ライブ活動は数本やったと思うけれど、あっという間に過ぎ去ってしまったのだ。

なんとも情けない話だ。

時は1995年。1年を無駄にしてしまったような23歳のフリーター。親と約束していた1年が過ぎようとした頃、中華レストランの社員の人が僕の事を気にかけて、

「森ちゃん、これからどうするんだい?うちでコック(社員)として働いた方がいいじゃないのー」

と声をかけてくれた。1ヶ月くらい悩み、考えた末、親にも心配かけているし、一度はちゃんと就職してみるかと思い、そのお店の社員として雇ってもらうことになる。

ここから中華料理のコックとして奮闘することに。アルバイトの時は随分と褒められたり、優しくしてくれていたが、社員となるとそうはない。とにかく、きつかった!しごかれた。料理の世界は厳しかった。返事のしかたから注意される。「なんだよ、その返事はー!女みたいな返事してんじゃねぇー!」(今となっては差別用語)

「はいー!」みたいな笑

「ラップ使ったら、元の場所に置くんだよ!バカ!」

「はいー!」みたいな笑

特に親方であるチーフはマジで怖かった。。

職人かたぎならではの料理人の厳しさをいちから学ばされ、その世界を目の当たりにした。とにかく、言われないように、注意されないようになるには仕事を覚えて「認められる」しかなかったのだ。注意されるたび、心の中で「こんちきしょう!」と何度叫んでいた事か^_^

絶対仕事をできるようになって、言われないようになるんだ!と、その悔しさだけをバネに頑張った。必死だった。先輩達の動きを見て、どうやったら仕事が早くなるかをいつも模索していた。

挨拶のしかた、包丁の使い方から、業者からくる食材の整理、管理、仕込みの段取り、いろいろと教わった。なかでも1番苦労したのは下っぱの仕事である従業員アルバイト全員の毎日の賄い係だ。

毎日毎日、賄いメニューを考えるのは本当に苦労した。料理本を何冊も買ってレパートリーを増やした。賄いに費やす時間は通常営業や仕込みの邪魔は出来ない。早番の定時は9時だったが、その時間に行ってもあとあと自分が追われるだけ。定時の2時間前、時には始発電車に乗って厨房に入り、賄いの準備を終わらせてから、普段の仕事をした。カレー、シチュー、牛丼、作っておけるものは朝のうちに準備した。

ただ作るだけでなく、残りそうな食材とか悪くなりそうな食材をロスが出ないように工夫して使い、はけさせなければならない。例えば、アルバイトにエビチリや酢豚が食べたい!なんて言われても簡単に賄いで出すわけにはいかなかったし、怒られるのだ。

とにかく、頭を使って工夫して、原価も抑えて、しかもみんなが美味しいと喜んでもらえるような賄いを作るのは大変だった。

そうそう、その時の親方、赤岡チーフの賄い係も自分だった。チーフは毎日中華そば(ラーメン)を食べるので、あんかけにするのか、炒め物を乗せたものにするのか、タンメン風にするのか、それを考えるのも大変だったなぁ。

でも、「森、今日の美味しかったよ!」なんて言われた時の喜びは今でも忘れない。本当に嬉しかった^_^

だんだんと仕事にも慣れてきた頃にチーフに言われたことがある。

「森、仕事早くなってきたな。でも1番大事な事、忘れてる事ないか。どんな仕事をするにしても、賄いを作るにしても、入れ忘れちゃいけないことがある。それは気持ちだよ。最後に愛情入れるんだよ!それで味も仕事も変わるから」

そんなふうに言われた事を今でも覚えている。

これって。今思うと。聖書にも同じようなことが書いてあるじゃないか!

「いっさいのことを愛をもって行いなさい。」

コリント人への手紙第一16章14節

なんて😁クリスチャンとなった今はそういう視点で思い出せるから感謝だ。

社員として働きながら、大好きな音楽は続けていた。同郷の山脇くんと組んだユニット「sugar &spice」としてライブ活動を続けていた。ユニット名はルーサーバンドロスの曲sugar &spiceをそのままユニット名にした。山脇くんは高校生の頃からベストヒットUSAを情報源によく洋楽を聞いていて、レコードもたくさん持っていた。チャックベリーやバディホリー、ストーンズからマイケルジャクソンまでいろいろ。そしてこの頃は特に黒人音楽が大好きだった。僕もその影響を受けた。当時ニュークラシックソウルと呼ばれていたジャンル。今はネオソウルなんて呼ばれているけど^_^。そんなジャンルに影響された曲作りをしていたかなぁ。アコギ2本でかき鳴らし、吉祥寺クレッシェンドというライブハウスでよくライブをした。と言っても今思うと、2人とも働きながらだったので2ヶ月に一回くらいのペースだったか。

この頃は、仕事が休みになると2人でよく遊んでいた。スタジオに行くかパチンコに行くか。そう、2人ともパチンコにハマっていたのだ。せっかく苦労して稼いだお金をギャンブルですっていた。圧倒的に負ける時の方が多かったのに、たまに勝った時の嬉しさ。

やめられない、とまらない、かっぱえびせん状態だ。中毒性にやられていた。そういえば、中華レストランの社員の人たちもみんなパチンコやってたなぁ。そういう環境の中にいた。

まったく、やめとけば良かったと、今振り返っても、これは後悔している。バカだったなぁと。

社員のコックとしては、真面目に働いていたのでだんだん仕事が認められてきた。人事移動があり、渋谷東急プラザ店から目黒サンメグロ店(二つとも今はもうない)に転勤。3年、4年と月日は流れ、気づけば27歳になっていた。山脇くんとやっていたユニットもだんだんとやらなくなり、生きる意味や目的もなく、悶々としていた。僕はどこに向かって何を大切にして、何を信じて生きているのだろうかと。仕事はしていたが、満たされない、何か言いようもない不安がいつもあり、心はふらふらしていた。

時は2000年。

そんな27歳のある日。季節は冬が近づく肌寒い11月。その日も仕事で疲れていつもの帰り道。目黒から山手線に乗り、渋谷で井の頭線に乗り換える。なぜか駅中ではなく、一度駅の外に出た。渋谷のモヤイ像のそばを通りかかったその時。1人の青年が暗がりの中、路上ライブをしていた。痩せ型ですらっと背が高くて、アコギをかき鳴らし歌っていた。ん?カッコいい。僕は気になって立ち止まり1曲聞いたあとに声をかけた(あまり声をかけるタイプではないが)彼はロックバンドをやるために上京し、そしてメンバーを探していたのだ。連絡先を交換し、毎週水曜日に路上で歌っているから一緒にやらないかと。

そう。この青年との出会いがのちに僕の人生を大きく変えるきっかけとなる。今なお苦楽を共にしているロックバンド、サルーキ=のボーカル、愛すべきパートナー、千代延大介!ちよちゃんである^_^

この2000年11月の出会いから22年が経とうとしている。そして今もバンドが活動しているのだからすごいことだ。これは何よりの証であり、奇跡と呼べる。こんなストーリーを誰が想像できただろう。

神様でしかない。この出会いは偶然ではなく、神様が計画してくれていたのだと信じている。

ああ、ありがとう。神様。

この翌年の2001年の1月。ロックバンド、サルーキ=は結成された。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。 

伝道者の書3:11 

続くー‼️たぶん第4部で終わるようにまとめる!😅

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